台詞の意味に囚われ過ぎてはいないか?
この日の稽古は、本読みをし、あるシーンの台詞を覚えて、
全くシーンとは異なる設定で、覚えた台詞を言う、ということをした。
まずは一人で。
もんじゃ食べながらとか、テントの中でとか、
猫に話しかけるとか、彼氏を友人に紹介するとか。
次は相手がいる状態で。
彼氏だったり、話し相手の猫だったり、親友だったり。
あとは、マイナスの状態
(腹から血が出ているとか、バンジージャンプとか、足がつってとか)
や、物まねで台詞をいう。
同じセリフでも、設定や状態が違えば、哀しくもあり、可笑しくもあり。
台詞の意味に囚われずに、どんどん自由になって、
ダイナミックになっていく。
そして、台詞に戻ってみる。その時の違和感にキーがあると冷泉さん。
突然、映画の話になるけれど、
画家・熊谷守一とその妻を描いた映画「モリのいる場所」で、
30年間家から出ず、庭で過ごした熊谷守一を演じた
山﨑努がインタビューで
「(役を台本通りに)普通にやっても面白くないから、
どう外していくか考える」と答えていた。
ああ、そういえば、冷泉さん、役作りや台詞を言うという時、
いつも「どう遊ぶか。どう外していくか」という話をしていた。
それが、今回の〝設定変え遊び〟でなんとなく体験できたような。
あと、「ガラスの動物園」を読んでいて、役のピースというか、
ファクターといえばいいのか、
これをぐっと掴むと楽しいことに気が付く。
とはいえ、冷泉さんが与えてくれた数ある中の一つのピースであり。
これを、自力で見つけないことには、
台本を立体化できないのだと気が付く。
台詞を綺麗に音読することはできてきた。
しかし、「役を思いやる」ためには、その役の大事な要素を掴み、
ダイナミックに躍動するためには、
台詞に囚われては自由にはできないのだ。
役のピースもなく、ただなんとなく綺麗に喋るだけでは、
「全然気持ち伝わってきませんでした」と言われるのだ。
役のピースを見つけるにはどうしらたいいだろう。
一先ず、街に出てみよう。
「感情の答えは街中にある。」
そう思って、見渡せば答えはあるかもしれない。
(記:かわさきみえこ)