セリフを言う為のリアリティ
最近の稽古はモノローグつくりをしております。
各々が人物とその人物の独白を作っております。
相手を置いて独白の稽古もしたり
なんだか被写体がウーロン太さんばかりですが、
各々、人物を作っております。
その稽古の中で、冷泉さんが言った一言がいま私の中でずっとぐるぐるしています。
「(セリフを)言う為のリアリティ」
そのセリフを言う為に、そのセリフを言う前のどんなやりとりがあったのか、
仕草はどうしているのか、人物は何を思ってそれを言うのか。
ひと言いう為に、どれほどのことを考え、そして、それを説明過ぎず、表現できるのか。
リアリティのために、いい嘘をついていく。
リアルを求めるのに、嘘をついていく。
リアルは生ではないのだ。
最近、なんとなくわかってきた。
生のままやってもそれは不快だったりする。
エンターテイメントへするのには、「いい嘘」が必要だ。
そのいい嘘をつくことで、コントではなく、スケッチになっていく。
スケッチのあたりになるともう、私はちんぷんかんぷんなんだけどね。
リアルは生のままやったらいいんだ!なんて固定概念。最近、やっと崩れてきた。
そいうえば、固定概念といえば、
最近のスピーチは歩く部分にお題がある。
この間は子どもで歩いたり、老人で歩いたりといったお題に。
老人となるとみんな腰を屈めて、のっそり遅く歩く。私もしかり、のっそり。
確かに、のっそり歩く老人もいるけれど、結構きびきび歩いている老人をみるし、
腰よりも、ひざや背中が曲がっている人もいる。
いかに、自分が記号でしかとらえていないのだと感じた。
人物を作るときに記号にしてしまえば早いけど、果たしてそれだけでいいのか。
演じるということはもっと繊細な作業のように思う。
ただ突っ立てても、演じていれば成立する。
はぁ、言葉で言うには簡単だけど、この間の大人数の先攻後攻のとき、私なんもしないで突っ立てたわよ…。
まったくもって、playするって繊細であり、大胆であり。本当だったり、嘘だったり。表裏一体。
人物の表現もさることながら、言葉の勉強も。
少し昔の言葉がいともたやすく消えかかっていると感じた。
言葉は変容していくものだろうけど、言葉を扱う俳優という仕事をするには
しっかりと、昔あった言葉も知っていくべきだろう。
昔の名画もしっかりと観ていくべきだろう。
とはいえ、私もワークスタジオに通うようになって、名画をいうものに出会った。
この「サーカス」も、稽古場にあったので観た。
チャップリンの多彩な才能にただただ驚く。
この日はみんなで鑑賞した。
二回目でも、最後の綱渡りのシーンはハラハラした。
歴史の流れに身を置いて、じっと考えを巡らす。
「言う為のリアリティ」とは、なんだろう。
(記:かわさきみえこ)
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